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学 院 史 編 纂 室 便 り

No. 18

2003年11月28日

関西学院学院史編纂室

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★西宮上ケ原キャンパスホームカミングデー

毎年11月3日に行われている西宮上ケ原キャンパスホームカミングデーに、昨年より当室も協力することになり、関西学院会館1階「輝の間」で、「思い出は母校と共に」と題する展示を行っています。 具体的には、昨年は「高商とベーツ先生」、今年は「原田の森の宣教師たち」というテーマのもと、当室所蔵の資料や写真を展示しました。 ホームカミングデー当日は、数多くの同窓の方が展示会場にお越しくださいました。学生時代の思い出話をお聞きしたり、展示資料寄贈者のご子息、ご令孫から声をかけていただいたり、当室にとっても有意義な1日となりました。

★原田の森時代の資料発見

昨年春、キリスト教と文化研究センターの大西和明事務長より、古い資料が出てきたとのお電話をいただきました。 商学部の辻 学助教授が、スクールモットーMastery for Serviceに関する論文執筆に必要な資料を求めて、 宗教センター内の棚や倉庫を捜索された結果、見つけ出してださったものです。 創立初期の理事会記録や吉岡美国第2代院長使用の出席簿等があったため、当室に運んで全資料を確認することにしました。

このほど資料の整理がほぼ終わりましたが、その中には新旧さまざまなものがあることがわかりました。 中でも、貴重な原田の森時代の資料は、恐らく上ケ原移転の際に当時の宗教館に運び込まれたもので、 そこに上ケ原での書類が加わり、「よくわからない古い物」として、処分されることもなく、宗教センター内の棚や倉庫を移動してきたものと思われます。

このように、今でも原田の森時代の資料が倉庫の奥に眠っていることがあります。何か気が付かれましたら当室までご一報いただければと思います。

*辻助教授の論文は『商学論究』50巻1・2号合併号(2002年12月)に掲載されています。

★ジョン・ウェスレー生誕300年記念展

今年は、メソヂスト教会の祖ジョン・ウェスレー(1703-91)が生まれて300年になります。 それを記念して各地で記念行事が行われていますが、来年1月21日(水)から25日(日)まで東京福音会センター(銀座教会)で 開催されるジョン・ウェスレー生誕300年記念展に、南メソヂスト監督教会により創立された関西学院からも創立時の資料を提供することになりました。 東京にお出での際は、ぜひ足をお運びください。

★「関学歴史サロン」「関西学院史研究月例会」開催予定

今年度秋学期の開催予定は次の通りです。いずれも時間は13:10~14:40、場所は経済学部2階会議室(西宮上ケ原キャンパス)です。 事前申込みは必要ありません。関心をお持ちの方はぜひご参加ください。

なお、前号でお知らせした田中敏弘名誉教授による「関学歴史サロン」(7月11日(金)開催予定)は、都合により中止となりました。

~関西学院史研究月例会~

第 8回:10月24日(金) 「J.C.C.ニュートン院長」 天川潤次郎

第 9回:11月28日(金) 「関西学院とハンセン病療養所」 長尾文雄

第10回: 1月23日(金) 「ESS部史からみた『英語の関学』」 神崎高明

~関 学 歴 史 サ ロ ン~

第 9回:12月19日(金) 「『関西学院スポーツ史話~神戸・原田の森篇』を書き終えて」 米田 満

J. W. ランバス夫妻中国伝道出発150年
W. R. ランバス生誕150年に寄せて

~ 故郷パールリバーとランバス・デー ~

2004年は、ランバス一家にとって記念すべき年である。 まず、関西学院創立者W. R.ランバス(1854-1921、以下ウォルターとする)の生誕150年に当たる。 また、その両親J. W. ランバス(1830-92、以下ウィリアムとする)夫妻が故郷パールリバーから中国伝道に出発して150年になる。 さらに、ウォルターの母M. I. ランバス(1833?-1904、以下メアリーとする)の没後100年にも当たっている。

ランバス家の故郷パールリバーは、米国南部ミシシッピー州の州都ジャクソン近郊に位置する。 祖先は、18世紀に「英国から渡って来てヴァージニアに住んだ人で、元来はランベス(Lambeth)といっていた(1)」。 パールリバーを定住の地としたのは、3代目J. R. ランバス(1801-64、以下ジョンとする)で、ウォルターの祖父に当たる。 16才で既に説教をするなど有能な伝道者であったジョンは、1843年、家族でミシシッピー州に移り住み(2)、 以来パールリバーがランバス家の故郷となった。

一家がパールリバーに移った年、ジョンの息子ウィリアムにとって、生涯忘れ得ぬ出来事が起こった。大彗星の接近である。 2カ月以上に渡って地球各地で観測され、大パニックを引き起こしたグレートマーチ彗星の出現について、 American Journal of Scienceは、「彗星の尾は、バミューダ、フィラデルフィア、ポルト・リコ〔プエルトリコの旧公式名〕の 地で、2月19日、23日、26日、近日点通過前の夜空に観測される可能性が極めて高い」(April-June 1843 issue)と報告している(3)。 長い尾をたなびかせ、夜空に輝く彗星は、13才のウィリアム少年に強烈な印象を与え、それをきっかけに、キリスト教徒を幸せにする霊的生活をもっと よく知りたいと思うようになった。そして、自分の父親が心から献身する姿に感銘を受け、父のようになろうと決心したのである(4)。

その後、ミシシッピー大学に進学したウィリアムは、ある安息日の午後、カンバーランド長老派教会で行われた少人数の祈りの会に出席し、 そこでイエスを発見し、イエスの内なる新たな生命として生まれ変わるという経験をする。以来、神が自分に何かをさせようとしていると感じるようになった。 そして、人々をキリストのもとに導くため、自分にできることをしようと決意する。1850年冬のことであった。翌年、大学を卒業したウィリアムは、 全くの別人となって故郷に帰った(5)。

1854年春、ウィリアムは南メソヂスト監督教会宣教師として、新妻メアリーを伴い、故郷パールリバーから中国に旅立つことになった。 明治維新の14年前のことである。当時の日本はペリーの来航を受け、「泰平の眠りをさます上喜撰〔高級茶のブランド名、蒸気船とのかけ言葉〕 たった四はいで夜も眠れず」と狂歌にも謳われるほどの混乱ぶりであった。また、アヘン戦争に敗れた清朝末期の中国は、太平天国の乱のただ中にあった。

ウィリアムの目を中国に向けたのは、宣教師として中国に行く若者を求めるJ. O. アンドリュー監督の手紙であったが、 1853年始めに、妻の病気(6)のため中国から一時帰国していた宣教師B. ジェンキンズも、ウィリアムの決心に何らかの影響を与えたと考えられる(7)。 1848年にサウスキャロライナ州から中国に渡ったジェンキンズは、中国の最新事情に詳しかった。ウィリアムたちは、中国に戻る彼に同行することになったのである

1853年秋のミシシッピー年会で中国派遣が決まってから翌年5月の出発まで、準備の期間はわずかしかなかった。 若い夫婦は、多くの時をパールリバーのランバス家で過ごした。3月になると小さな船でミシシッピー川を遡った。 ヴァージニア州リッチモンドで行われる宣教師の会合に出席するためであった(8)。 リッチモンドで行われた送別会で、ウィリアムたちと共に中国に渡るJ. L. ベルトンは次のように挨拶した。 「私は皆さんにお別れの言葉を送ります。中国に行き、二度と帰って来るつもりはありません」。 ベルトンの母親は最後まで息子の中国行きに反対だった。父親は最終的には息子の決心を受け入れたものの、 「今まで5~6人の子どもの遺体を埋葬してきましたが、今私は生きた子を葬るよう命じられました」と語った(9)。 実際、中国に渡ったベルトンは体調を崩し、翌55年11月、帰国の途につき、ニューヨーク到着と同時に亡くなっている(10)。 当時の中国宣教は、まさしく命をかけた危険な仕事だったのだ。

リッチモンドでの会の後、ウィリアムたちはニューヨーク州ケンブリッジにある妻メアリーの実家にも立ち寄ったと思われる(11)。

19世紀中盤の中国航路は、ニューヨークから大西洋を南下、ケープ・タウンを通ってインド洋を横断するという行程であった(12)。 4カ月以上にも及ぶ帆船による旅である。後に、世界中を精力的に宣教して回るウォルターは、母の胎内で既にこの長旅を経験していたことになる。

メアリーは、旅の様子を細かく日記(原文:英文)(13)に書き残している。そこには、2人が陸で食事している間に船が桟橋を離れてしまったことや、 船上での生活の様子が描かれている。この希望に燃えた若いカップルの中国への旅立ちこそ、その35年後、神戸を舞台に繰り広げられた 関西学院誕生に続くドラマの始まりであった。

5月2日、火曜日

この日、私達は乗船地を出て、今後数ヶ月間我が家となるエリエール号の船室に入りました。 私たちのステートルームはかなり狭いけれども快適です。

5月5日、金曜日

テイラーの店で食事した後、私たちの船が出航しようとしている桟橋に大急ぎで戻りました。 ところが、何と、乗船するにはちょっと遅すぎたようです。私たちは今どうすべきか、二つの意見の間で悩んでいます。 けれど、小さな蒸気付き曳船に乗って、できるだけ早く船に乗り込むことになりました。そうして、15分後、プランク〔厚板〕が 船のデッキから曳船のアッパーデッキまで降ろされ、私たちは船に乗り込みました。 このようにして、私たちの旅は始まったのです。

5月23日、木曜夜

緯度22度12分、経度31度40分、総航行距離1520マイル
乗船以来初めて何か仕事をすることができました。今日は、ランバス氏のために2枚のハンカチの 縁かがりをし、毎食テーブルに付きました。

6月13日、火曜日、

緯度1度57分、経度〔未記入〕
日除けの下に座っていれば、今日の暑さはそんなにひどくはありませんでした。
朝食の前にデッキに出ました。朝食と正餐〔昼食〕の間に昼寝をしました。おかげでとてもスッキリしました。 1時に食事をした後、縫い物を持って下のデッキに行き、夕食までそこで過ごしました。 ショートケーキの準備ができたとの放送を聞いて下に降りました。お茶の後、少し散歩をしてから、 ランバス氏がフルートを吹き、私は歌いました。今は聖書を読み、一日の終わりの祈りを捧げ、休むところです。

7月9日、日曜日

寒くて陰鬱な一日でした。冷たい風が絶え間なく吹き、怒り狂った様子の雲が空を覆っていました。 実際、海は激しく荒れ、船室で身体のバランスを保つことが時々できなくなるほどで、デッキではなおさらのことでした。 一日のほとんどを船室で過ごしました。そこが私には一番居心地が良かったからです。夜遅くまでデッキには出ませんでした。 波が高くうねり、船は航行不能なほど激しく揺れました。

8月14日、月曜日

今日も穏やかで気持ちの良い一日でした。心地よい風のおかげで、私たちは航行し、 待ちに待ったジャワ・ヘッドと呼ばれるポイントが見えました。

8月22日、火曜日

1日中耐え難い暑さに皆悩まされています。ジェンキンズ夫人は今夜歯痛に苦しんでいます。 ベルトン夫人は頭痛です。ケリー夫人は一日中体調がすぐれませんでした。・・・ベルトン氏とケリー氏は、 宗教改革の歴史とコールリッジの作品を読もうと骨を折っています。・・・ランバス氏は、 いつものように、研究と精密な調 査により、いくつかの新しいアイデアをまとめるのに熱心です。

9月1日、金曜日

まだ、台湾海峡にいます。少し離れた所に、中国のジャンク(船)が何隻か見えます。 間もなく中国の大地を歩く許可が得られますように。

9月6日、水曜日

温度計は、太陽の下では132度〔摂氏55度〕を示しています。 こんな暑さは経験したことがありません。

9月11日、月曜日

今日は、少し離れた所に鳥が見えました。恐らく中国の岸からやって来たのでしょう。 でもこの1週間、船は一隻も見ていません。

9月14日、木曜日

私たちの希望の地が近づくにつれて、キリストの十字架に対する責任と義務を強く感じています。

9月18日、月曜日

神の慈悲と情けにより、私が選んだ故郷、中国の大地に無事上陸し、住む所が与えられました。 そこはずっと長い間待ち焦がれていた場所です。

中国上陸後の11月10日、ウォルターは上海の宣教師館で産声を上げた。 その宣教師館のポーチの下に這い寄って来る小さなカニを捕まえて遊んだという思い出を後年ウォルターはしばしば語っていたと言う(14)。

中国生まれのウォルターが初めて祖国アメリカの地を踏んだのは、1860年1月半ばのことである。 ウォルターは5才になっていた。Christian Advocate誌は、当時のウォルターを「目鼻立ちの整った利口な子どもで、英語より中国語で話すことが多い」 と報じている(15)。しかし、一緒に帰国した母親は、ウォルターと3才年下の妹ジャネット〔ネティ〕をニューヨーク州の両親のもとに預けると、 すぐに夫の待つ中国に帰って行った。ニューヨーク出航の前日、メアリーはパールリバーの舅に宛て次のように書いている(16)。

「ウォルターはネティ以上に私を恋しがります。私がいないということで1~2回泣いたそうです。 でも祖母が話して聞かせると、『ママが中国に帰って、中国の女の子たちにどうやったら天国に行けるか教えてくれると嬉しいな。 だって、そうすれば僕が天国に行った時、その女の子たちに会えるでしょ』と言ったそうです」

ニューヨーク州ケンブリッジで母方の祖父母と生活していたウォルターが、ランバス家の故郷パールリバーで両親と共に暮らせるようになったのは、 南北戦争が始まってからのことであった。戦争中、両親が初めての休暇を取って中国から帰国したのである。 父ウィリアムは16人兄弟の次男だった。故郷でウォルターは大勢の親戚に囲まれて育った。 馬に乗って学校に通った。しかし、ジャネットを猩紅熱で失うという不幸に見舞われる。 やがて、新たな娘ノラが誕生した(17)。

故郷での2年間の想い出を抱いて、一家は中国に戻る決心をする。南北戦争末期の混乱の中、乳飲み子を連れて ニューヨークに向かう苦労は相当なものであったと推測されるが、その話は別の機会に譲り、ここでは故郷パールリバーの教会に話を移したい。

パールリバーには、白いペンキで塗装された古い木造の小さな教会パールリバー・チャーチがある。 1833年に建てられた当初は、教会だけでなく学校としても使われていたが、約60年後、現在の姿に改装された。 南北戦争中に亡くなったウォルターの妹ジャネットを初め、祖父母や叔父、叔母たちがこの教会の墓地に眠っている。

1899年夏、パールリバー・チャーチで四季会が開催された時、ランバス家の精神とその働きを記念して、教会の正面に記念碑を建てる提案がなされた。 翌年8月9日、大勢の人々が見守る中除幕式が行われ、当日出席できなかったウォルターの手紙が読み上げられた。 以来、毎年記念礼拝が行われるようになったが、実際にランバス・デーと名付けられたのは1927年のことである。 教会は73年に閉鎖され、ミシシッピー年会の史跡となった。しかし、戦争により中断された期間(1943-46)を除き、 年1度の礼拝は現在に至るまで守り続けられている(18)。関西学院の創立90周年を記念して実施された海外諸大学視察旅行の折りに、 大勢の関西学院教職員がこのパールリバー・チャーチを訪問し、礼拝と地域の人々との心温まる交歓の時がもたれた(19)ことは記憶に新しい。

パールリバー・チャーチの記念碑に刻まれている言葉(20)は次の通りである。

[West Side]

1900

ERECTED BY
FRIENDS TROUGHOUT
MISSISSIPPI

JAMESE WM LAMBUTH
BORN
MAR. 2, 1830
APPOINTED BY MISS. CONF.
TO CHINA 1853
DIED APR. 28, 1892

LAMBUTH

[North Side]

IN CHINA

From Shanghai as a center for
32 years he pushed further and
further his bold course, preach-
ing in the town and cities of
the interior.

Chinese christians begged his body for
burial in the soil of China; but the
Japanese had heard him say that he desir-
ed to sleep in their land; so he rests by
the City of Kobe

[South Side]

MESSAGE TO CHURCH IN AMERICA
Tell them I died at my post. We
have a great work to do;
send more men.

MESSAGE TO THE CHURCH IN JAPAN
Tell them to be faithful, faithful
to the end.

MARY ISABELLA McCLELLAN LAMBUTH
Wife of Jamese William Lambuth and
Mother of Bishop Walter R. Lambuth.
Born Dec. 17, 1832, at Cambridge,
New York.
Died June 26, 1904, at Soochow,
China.
Buried at Shanghai, China.
Faithful missionary and
dauntless soul.

[East Side]

BISHOP WALTER
LAMBUTH, MD., BS., MA., DD.
Born Nov. 10, 1854, in
Shanghai, China.
Died Sept. 26, 1921, in
Yokohama, Japan.
Buried at Shanghai, China.
Elected a Bishop of the
M. E. Church, South, in 1910.
World Citizen and Christian
Apostle to many lands.

This Inscription added 1935

IN JAPAN

He went fourth to the mission fields,
toiling without rest 6 years, planting the
churches in Kobe, Hiroshima, Uwa Jima and
Tadotsu.

All of inscriptions on this monument are in upper-case letters.

ノースキャロライナ州ダーラム

1942年7月31日

愛する父の記念式典を挙行してくださるミシシッピー州の人々の集会に、言葉を送らせていただきたいと思います。 私はこんなにも出席したいと思っているに、出席することができませんのでこの手紙を送ります。 皆さんがこの手紙に関心を持ってくださるものと信じています。

祖父ジョン・ラッセル・ランバスが、年会から故郷に呼び戻されたのは1830年3月のことでした。 戻って来た時、彼は初めての男の子〔正しくは次男、長男はノラの生まれる20年前に亡くなっているため勘違いしたものと思われる〕が誕生したとことを告げました。 さらに、その男の子〔ウィリアム〕を宣教師として捧げると宣言し、1梱の綿花を捧げたのです

ですから、ジェームズ・ウィリアム・ランバスがミシシッピー州オックスフォードで学業を終えた時、 教会が派遣する所ならどこでも喜んで赴く覚悟ができていたことは驚くには当たりません。

彼とその花嫁は、1854年春、ニューヨークを出発しました。他の二組の夫婦と共に、中国の上海に到着するまでの6カ月間、 「エリエール号」で航海しました

32年間、父と母は魂を救う仕事に没頭しました。母が上海で仕事をしている間、父は月の内の半分は中国人の漕ぐ屋形船に乗り、 いくつもの水路を巡り、たくさんの村や町を回り、説教したり教えたりしていました。上海から蘇州、そして太湖まで、彼は Jesus Manとして知られていました。そして、皆のために亡くなった救い主のことを語る機会を決して逃しはしませんでした。

中国での32年間の伝道の後、伝道局は1886年に日本伝道開始を決めました。父と母は日本の神戸に行って、伝道を始めました。 父は再び小さな蒸気船に乗って、瀬戸内海を行ったり来たりしました。母は家を守り、夜間学校で教え、女性のための職業訓練のクラスを 持ち(21)、欧亜混血児のための学校で教えました。

最初、父は自分の話を日本語に訳す通訳(22)を連れていました。 父には中国語の書き言葉の知識があったので、自分の所に来た人々と意志を通じ合うことができました。 しかし、半年の内に日本語で説教を書き、それを読むことができるようになりました。 6年間休む間もなく説教したり教えたりした後、神戸で行われた葬儀で風邪をひきました 〔記録では、体調の悪い中、神戸で開催された四季会に出席して病床に伏したとなっている〕。 父の働きは終わったのです

臨終の時そばにいた母とタウソンに向かって、「私が目にしている天の栄光を語る言葉が私にはない」 と父は叫びました。私には「待っているとノラに伝えてくれ」という言葉を残してくれました。 私の夫は中国から呼び戻されたのですが、嵐に阻まれ、私達がやっとの思いで神戸にたどり着いた時、 残念なことに愛する父の魂は既に召されていたのです。

母がすばらしい人だったので、父はすべての時間と考えを伝道に捧げることができました。 母は、中国でも日本でも、常にいくつもの仕事を指揮していながら、急いだり、悩んだりする姿を見せたことがありませんでした。 父が亡くなった後も母は日本で仕事を続けていましたが、健康状態が悪化したため12年後にとうとう仕事を辞め、 中国の私たちの家に参りました。しかし、それから1年もしない内に天に召されました

私の兄、ウォルター・ラッセル・ランバスをご存じの方もいらっしゃるでしょう。 最初の頃、兄は父と一緒に説教の旅に出ており、父と同じようによく歩きました。 この長距離を歩く能力がアフリカへの長く困難な旅〔アフリカ大陸を1500マイル(約2400キロ)歩いたと言われている〕を可能にしたのです。 14才の時、兄は健康の衰えのため、気候の良いアメリカに帰るよう医者に勧められました。

兄のキリスト者としての理想は、ちょうどその時形成されました。若い時に兄は自分自身をキリストに捧げました。 テネシー州レバノンで、その後、ヴァージニア州のエモリー・アンド・ヘンリー大学で学び、卒業し 、伝道活動と医療活動の準備をしました。中国の中部と北部には今なお兄の働きの成果があり、 それは日本や、はるか遠くアフリカにも見られます。兄はキリストのためのこの最後の偉業で、確かに全体力を使い果たしました。

私の夫、W. H. パーク博士は、1882年にランバス博士〔兄〕と共に中国に渡りました。 ランバス博士が合衆国への緊急帰国の後、戻って来た時、二人は中国の蘇州で医療活動を始めました。 ランバス博士はその後、他の場所に行くことになりました。夫は45年間、蘇州で暮らし、働きました。 愛すべき医者として、「善良なパーク博士」と呼ばれ、すべての人を愛し、病人であれば、金持ちでも貧しい人でも決して差別することはありませんでした。

私自身に関して申しますと、私の人生は大変充実していました。 南北戦争中、父が最初の休暇を取って故郷に帰っていた時に、私は生まれました。 私は、ランバス家の故郷で、ランバスの祖父から洗礼を受けました。 そして、生まれてたった4カ月で中国に戻りました。様々な困難があったため、中国に帰り着くのに1年近くかかりました。 1886年にパーク博士と結婚して、長年蘇州で暮らしました。パーク博士が亡くなってからは、娘とその夫シェレルツ氏 と暮らしました。シェレルツ氏は今も上海にいます

私はもうすぐ80才になります。愛する娘がよく面倒をみてくれて感謝しています。 そして、娘とその5人の子どものために、私にできるだけのことをしたいとがんばっています。

ノラ・ランバス・パーク

この後、娘と共に再び中国に戻ったノラは、1949年7月5日、彼の地で亡くなっている。 兄ウォルターの親友と結婚し、中国の大地に根をおろし、兄が蒔いた一粒の麦を大きく育てた一生であった。

1951年のランバス・デーの礼拝は8月9日に行われた。さらに、8月12日には、ウォルターの祖父ジョンの生誕150年を祝う特別プログラムも行われている。 ゲストとして、前年まで中国で宣教師をしていたワシントンD. C. 在住のシェレルツ夫妻が招かれた。 このシェレルツ夫人がノラの娘である。当時の新聞には、ジョンの子孫は97年にもわたって宣教師として活躍したと紹介されている(23)。

1954年、ウィリアム夫妻の中国伝道出発百年とその息子ウォルターの生誕百年を記念して、数々の特別行事がアメリカで行われた(24)。 皮切りはその前年の10月20日に行われたウィリアム夫妻の結婚百年の祝賀だった。 百年前、二人が挙式したスマイリー・ホーム(ミシシッピー州テリー近郊)(25)に大勢の参加者を集めて礼拝がもたれた。 翌54年、8月10日から12日まで、パールリバー・チャーチで数々の記念礼拝が行われた。 さらに、ウォルターの誕生日11月10日にも特別なプログラムが組まれたと言う。

1993年、創立150年を迎えたランバス大学(テネシー州ジャクソン)で、Dr. Walter Russell Lambuth, Bishop, Educator, Explorer というパンフレットが作られた。その中で、ウォルターが創立に関わった学校が紹介され、次のように書かれている(原文:英文)。

「ランバス博士によって創立され、初期には小さかったこれらの学校はどうなりましたか?」と尋ねる人がいるかもしれません。 今日、蘇州の小さな学校は東呉大学として台湾に移っています。中華民国の優秀な教養大学です。 パルモア学院は今も存在しています。何百人もの日本人に、今も英語を教えています。 広島女学院は1万人以上〔正しくは約4千人〕の学生が学ぶ広島女学院大学となりました。 ランバスが愛した神戸の関西学院は、現在1万5千人もの学生を有する〔2004年現在学生・生徒数約2万人〕総合大学で、医学と法律と神学の博士課程を持っています〔残念ながら医学部はない〕。 元山大学(26)も北朝鮮ではありますが、存在しています。私の知る限り、西側諸国のだれもこの学校とは連絡を取っていません。 しかし、今日もなお存在しているのです。

さらに月日は流れ、来年私達は、ウィリアム夫妻が中国伝道に出発して150年、その息子ウォルターが生まれて150年の記念すべき年を迎える。 今度は、どこで、どのような記念行事が行われるのだろうか?

ウォルターは、アジア、シベリア訪問中の1921年9月26日、横浜で亡くなった。 遺体は関西学院に運ばれ、10月3日、原田の森で告別式が行われた(27)。 本人の遺志により、その遺骨はさらに母親の眠る上海へと運ばれた。中国で行われた葬儀の時に合わせて、 アメリカ全南部の街々の教会は、弔いの鐘を打ち鳴らしたという(28)。

アメリカには前述のランバス大学の他、ランバス・メモリアル・チャペル、ランバス・ホール、ランバス・ロード、ランバス・イン等、 その名を冠したものが数多く残っている。アフリカにもランバス・メモリアル・メディカル・センターがある。 上ケ原と神戸三田の両キャンパスにランバス記念礼拝堂を持つ関西学院でも、2004年に向けて記念行事が計画されつつあるようだ。

【注】

  1. 山崎治夫『地の果てまで-ランバス博士の生涯-』、啓文社、1963年、2-3頁。
  2. 同書、3頁。
  3. 1843年のグレートマーチ彗星の出現が当時の人々に強烈な印象を与え、大騒動を引き起こした ことや、それによりメソディズムが利益を得たこと等が記録に残されている(Gray W. Kronk’s Cometography.com)。
  4. Letter of May 8, 1884 from J. W. Lambuth, Shanghai, China, to the editor [of Adovocate].
  5. Letter of April 1, 1884 from J. W. Lambuth, Shanghai, China, to the editor [of New Orleans Adovocate]. ウィリアムがNew Orleans Advocate誌掲載のため、中国から書き送った手紙については、保田正義名誉教授が 「ランバス博士の中国からの手紙」『キリスト教主義教育-キリスト教主義教育研究室年報』22号、 1993年、99-106頁と「ランバス博士の手紙を翻訳して」同23号、1994年、41-48頁で詳しく紹介している。
  6. ジェンキンズの妻は、中国からアメリカに向かう船上で亡くなり海に葬られた。 アメリカに戻ったジェンキンズは新しい伴侶を得て、ランバス夫妻たちと共に、再び中国に渡った。
  7. Cain, J. B., Methodism in the Mississippi Conference 1846-1870, The Hawkins Foundatition,1939, pp. 106-107.
  8. Ibid., pp. 107-108
  9. Letter of April 18, 1884 from J. W. Lambuth, Shanghai, China, to the editor [of New Orleans Adovocate].
  10. John, I. G., Handbook of Methodist Missions, Publishing House of the M. E. Church, South, 1893, p. 178.
  11. Cain, J. B., op.cit., p. 108.
  12. 関西学院創立90周年記念映画製作委員会「テキスト パール・リバーから地の果てまで」、1980年、4頁。
  13. メアリーは日記を付けていたと思われる。今回紹介したのは、娘ノラの手でタイプされ、紹介された1854年1月1日 から9月18日までの日記より一部抜粋したものである。
  14. Pinson, W. W. Walter Russell Lambuth: Prophet and Pioneer, Cokesbury Press, 1924, pp. 23-24.
  15. Ibid., p. 28
  16. Letter of June 5, 1860 from M. I. Lambuth, New York City, to J. R. Lambuth.
  17. 山崎治夫、前掲書、14頁。
  18. 久山康「パールリバー・チャーチを訪れて」『関西学院通信クレセント』第5号、1979年9月、8-9頁。 関西学院教職員の訪問は、地元紙(Madison County Herald, August 16, 1979, Northsider Sun, August 23, 1979, etc.)にも紹介された。
  19. Sketched by George R. Armistead on March, 6, 1978. ジョージ・アーミステッド氏は、ウィリアムの妹の孫に当たる。 この他にも、アメリカの関係大学から収集したランバス一家に関する資料をフランシス・ブレイさんを通じて 関西学院に寄贈してくださっている。
  20. メアリーの創った学校は、1888年、神戸婦人伝道学校としてスタートしたが、後にランバス女学院となって大阪に移った。 その歴史は現在の聖和大学へと続いている。
  21. ウィリアムが中国から連れてきた通訳は鈴木愿太である。後に、吉岡美国も通訳を務めた。
  22. Madison County Herald, August 3, 1951.
  23. The Lambuth Centennial 1854-1954: From Pearl River to the Ends of the Earth.
  24. ウィリアムとメアリーが挙式したスマイリーホーム(別名レッド・オークス)は、1966年8月、放火により焼失した (Jackson Daily News, August 30, 1966)。
  25. The Missionary Voice, June 1923 に掲載された”Lambuth Institute, Wonsan, Korea”によると、 ウォルターは、元山に創った学校を神戸のパルモア学院のような学校にする考えであった。 彼が朝鮮人の言語能力を高く評価していたことは、宮田満雄訳「朝鮮雑記」『関西学院キリスト教教育史資料Ⅴ』、 1974年、24頁に次のように書かれている。「朝鮮人の言語能力は非常に発達している。これを試すには、 英語の習得とその正しい使用法を見るのが最も良い。私の観察では、中国人の方が日本人と比較して、より慣用的に、 また良いアクセントで英語を話すが、『隠者の王国〔朝鮮〕』の学生は、この点に関して中国人より遥かにすぐれている」。
  26. 『関西学院百年史』通史編Ⅱ、1998年、604頁。
  27. Pinson, W. W., op. cit., p. 244.

本稿執筆に当たって使用した英文資料の何点かは、山内一郎院長がヴァンダビルト大学(テネシー州ナッシュビル) からコピーを持ち帰られたものである。院長は1992-93年、同大学に客員研究員として滞在し、関西学院の創立者ウォルターの他、 初期の宣教師の資料を収集された(バージニア州のエモリー・アンド・ヘンリー大学を卒業したウォルターは、 ヴァンダビルト大学でさらに2年間学び、神学と医学を修めている)

滞在当時ヴァンダビルト大学の取材を受けた院長は、英語で次のように語っている。 「私の大学とヴァンダビルト大学との間には非常に緊密な歴史的、霊的結びつきがあります。 ヴァンダビルトからは数多くの宣教師が関西学院にやって来ました。そして、関西学院は多くの卒業生を ヴァンダビルトに送って参りました。私達は、ヴァンダビルトを関西学院の姉妹校のひとつだと考えています」。 関西学院第2代院長吉岡美国も19世紀終わりに、ヴァンダビルト大学で学んでいる。

〔池田裕子〕