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学 院 史 編 纂 室 便 り

No. 17

2003年11月28日

関西学院学院史編纂室

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★J. C. C. ニュートン第3代院長の子孫来学

ニュートン第3代院長の曾孫に当たるエモリー・アンダーウッド氏ご夫妻が、5月10日から24日まで、関西学院を訪問されます。同氏は、ニュートン院長の長女の長男の長男で、アメリカ・ノースキャロライナ州モントリートにお住まいです。原田の森で少女時代を過ごされたお祖母様から、日本や関西学院の話を聞いて成長された同氏は、曾祖父に当たるニュートン院長が残した日本の美術品や工芸品の他、手書きノート、写真等を今も大切に保管しておられます。

山内院長のご招待により実現した今回の訪問期間中、法・経・商学部合同チャペルや神戸三田キャンパス合同チャペルの他、高等部、中学部それぞれの合同チャペルでもお話しいただくことになっています。また、5月13日に行われる「教職員の集い」にもご出席の予定です。

★『関西学院史紀要』第9号の発行

3月24日に『関西学院史紀要』第9号(A5版244頁)を発行しました。希望者に配布しておりますので、ご希望の方は学院史編纂室(内線3172)までお申し出ください。 主な内容は、「吉岡美国と敬神愛人(4)」、「地域新聞にみる1925年から29年(上ケ原移転)までの関西学院情報-『神戸又新(ゆうしん)日報』を中心に-<下>」他です (目次詳細)。

★グエン・ノルマンさん死去

カナダ合同教会で、その外国伝道関係の資料整理に大きな貢献を果たされたグエン・ノルマンさんが2月5日、トロントでお亡くなりになりました。93才でした。

関西学院では、文学研究科西洋史学専攻(修士課程)開設に伴い、史学科助教授を務められましたが、離日後も、カナダ・メソヂスト教会、カナダ合同教会の資料提供を含め、長年にわたり当室の活動にご協力くださいました。 主な著書に、One Hundred Years in Japan 1873-1973(1981年)、カナダ合同教会第6代モデレーターを務められたお父上Richard Roberts氏の伝記Grace Unfailing(1998年)があります。

★「関学歴史サロン」「関西学院史研究月例会」開催予定

今年度春学期期間中の開催予定は次の通りです。いずれも時間は13:10~14:40、場所は経済学部2階会議室(西宮上ケ原キャンパス)です。

~関西学院史研究月例会~

第6回:5月30日(金)「大学紛争で得たもの、失ったもの-一職員の視点-」山口恭平

第7回:6月27日(金)「高等部における読書科の歩み」宅間紘一

~関 学 歴 史 サ ロ ン~

第9回:7月11日(金)「タイトル未定(大学紛争に関連した内容)」田中敏弘

◆第3代院長ニュートン先生を偲ぶ◆

「周知の通り、本学は故ランバス監督によって創立されました。 しかし、それを今日の姿にしたのはニュートン先生です。それゆえ、前者を実の父、 後者をすばらしい学びの場に作り上げた、育ての親と呼びたいと私は思います。 日本の古い諺に『産みの親より育ての親』と言います。ですから、私は個人的に、 ニュートン先生を一層敬愛し、大切に思うのです」。

これは、『學生會時報』第7号(1923年5月15日)に掲載された一文(原文:英文)である。 J.C.C.ニュートン第3代院長(1848-1931、院長在任:1916-1920)から直接 教えを受けた人々は、現在95才以上になっている。既にその多くが故人であろう。 しかし、ニュートンが初期の関西学院の学生、教職員にいかに大きな感化を与えたかは、 このように残された記録や文章の中から探ることができる。

ニュートンの生涯については、報告書「J.C.C.ニュートン第3代院長の足跡を訪ねて」の中で 紹介した(『関西学院史紀要』第9号、2003年3月、169-234頁)。 そこで、今回は、報告書では紹介しきれなかった資料の中から、ニュートンについて書かれた文章を 集めて、ニュートンがどのような教師であったのか偲んでみたい。

まず、本人自身も気にしていたと思われる日本語能力について、おもしろい証言が残っている。 来日時のニュートンは既に40才で、日本語という新しい言語を習得するにはかなり遅いスタートであった。

ニュートン先生が當時米國から戻られた頃新講堂で日本語で何か報告されてあ たが、皆々其話された事が不可解に終わったので呆然としてあったけ、先生今日本語如何に。(例の如く半解辨ですよ) (宇津木生「在學当時の思ひ出」『関西學報』第9号、1910年5月、100-101頁)

原田の森で大正二年春の事吾々が學院高商部へ入學早々故ニュートン博士の 倫理英語講座があった、外國人の講義は皆始めであって先生からの質問を当てられてはと皆が教室の 遥か後ろの方に集り小さくなって居るのが常だった。
或る日例の通りの格好で教室に居ると先生何を氣づかれたか講義の途中教壇から手で招き乍ら 一寸物を噛む様な口をして平気で「ミナシャン、モット、マエエ、シゲリ(繁り)ナシャイ」 現今ならば「ギョツ」物です。 (中村勇吉「ミナシャンモット シゲリナシャイ」『母校通信』5号、1950年10月、13頁)

さらに楽しい入学風景について、「この日ニュートン博士というのが多理たちをあつめて、 ろれつの廻らない言葉で、しかしニコニコがほを振りまきながら演説した。 いまをさるXX年まえ、南メソジスト教会監督のランバス博士が、まぼろしとしんかうと、ぼうけんの 精神をもって蒔いた一つぶのたねは、こんにち、このおをきな樹木となって多くの実を結ぶに至ったのであります・・・ ここまではちっともをかしくなかったけれども、その次に、ニッポンのころもさんアメリカのころもさんと同じです。 ちッとも変わっていませんですと続けられたとき、多理たちは、他の大人といっしょにふき出しそうになった。 白髪の背の高い老人であった。その頑丈な躯つきは、なるほどこの人が-はたして年齢が合っているかどうか多理は考えてみなかったが- 南北戦争に出たという風説は本当かなと思はせた・・・」(昭和二十三年刊「彼等」から)とつづけている。 青木重雄『青春と冒険:神戸の生んだモダニストたち:小松清、竹中郁、稲垣足穂』中外書房、〔1955年〕、192頁)

当時の学生と教師との温かい関係を彷彿とさせるエピソードもいくつか残っている。 ニュートンが関西学院を辞め、帰米したのは1923年春で、その年の6月現在の教員数は113名 (日本人57名、外国人13名、日本人嘱託37名、外国人嘱託6名)、5月末現在の学生数は1,677名 (中学部784名、高等商業学部656名、文学部167名、神学部70名)、卒業生累計は1,715名であった。 そんな中、ニュートン夫妻見送りのため神戸港に集まった教職員、学生、卒業生の数は2千名にものぼったと言う。 原田の森時代の関西学院には、現在からは想像できないほど家庭的な雰囲気があったことが伺える。

博士に就て忘る可からざる一挿話がある、 當時學生の多くは苦學をして居った。ところが學生中極めて少額の學資に甘んじ、敢て仕事を見出さんことを務めなかった者があった。 其學生の性格を熟知せる博士は彼のプライドを傷くる事なく、若干の収入の途を講ぜしめんが爲、 風景畫數葉を示し、其説明を英語で認めんことを求めた其學生は意気揚々として其求めに應じ、 斯くて之に対する過分の報酬を獲て得々たる色があった。勿論我等当時の學生は米國の新聞紙面を飾るに足る所の 名文を草し得る譯がない。博士は其青年に知らしむることなく、陰かに之に添削を加へて、彼地に送られたのであった。 博士が斯る文章を添削するよりは、自ら筆を走らせて説明を加ふる事の如何に容易なるかは言ふまでもない 然かも博士は氣概に富み、故なくして人の補助を受くるを肯んざりし其の青年を助けんが為、 敢えて此挙に出でられたのであった。 (堀峰橘「慈愛の父と苦學青年」『関西学院新聞』第52号、1930年5月20日、2頁)

大正八年高商二年生の時だった。その時の院長ニュートン老先生は確か社会学を講義していられた。 講義が了ってバラックの教室から外へ出た。途端に老先生は私の肩をたたかれて何か囁かれた。 「君たち日本の青年は将来支那の人達と仲よくせぬと駄目ですよ」と藪から棒の言葉だった。 その時は何の気なしに聞き流したが、今になって深い心理が籠もっている言葉だと分った。 (石阪孝二郎「同窓消息」『母校通信』8号、1952年5月、22頁)

ニウトン先生は親切なよく世話を燒いて下さったいいお父さんであった。 あのやさしい目、雲よりも白い髪、耳から垂れてゐる長い白いひげ、私の學生會長時代である。 チャペルで先生が報告されたが、時々重大な錯誤があった。私は其の場で之を先生に言った。 そして其の後老衰を理由の下に自決を促した。先生は役員全部を私宅へ召喚された。 叱られると思ひ一同きまり悪く思ひながら集った。先生は兩眼に涙をたたへ自分は老齡重責に堪へぬ。 目下後任詮衝中であるから適任者が確定するまでは此のままで我慢をして貰ひたい。 どうか學生會が一致して此の私を助けてくださいと云はれた。それから私に對し君は學生會代表として これから神樣に祈って下さい、といはれた。私は日本語ででも祈祷をした事がない。まして英語に於ておやだ。 私は出來ませんと答へると先生はでは私が代わりに祈りませう。といって靜かな嚴かな調子で、神に祈を捧げられた。 其の時壁間にかかってゐた南北戰爭時代のリンコルンの肖像のついた新聞が今も目に殘ってゐる。 (大杉信夫「學院生活の斷片」『関西學院 學生會抄史』1937年、109-110頁)

我等が在院中プレシデント、オブ、リンカーン號で神戸突堤より歸米された、 全學生は盛大に岸壁に列を作り一部はランチで沖合まで出て別離を惜んだ。 バラックで講義を受けた事もあったが出席率がよくなかった。難解な爲ではなかったと思ふ、 卒業後の實生活により多くの関心を持つ實利的な學生心理がさうさせたのかも知れぬと自分丈け思って居る。 當時學生中には友人の出席率の為に人名點呼に代理で返事をする不心得者も居た様だ。 ニュートン院長の出缺を採らるるや全員皆「ハイ」・・「ハイ」で一人も缺席のない事があったかに記憶する、 しかも坐席はチョイチョイ空いてゐる。幽靈が出席して居た譯だ。一應は不審として返事をする生徒の方を見るか 坐席に注意するが人情であるのに院長たるやo、K、オーケイ、いやしくもハイと返事のある限り出席に疑ひないのであった。 汝愧ぢよ-信ずる人に與へるいつはりは罪惡の最大なるものであるまいか、俄然此の一言丈けでもニュートン院長の講座には 皆勤せねばならぬと自分は思った。 (上野仙一「斷片録」『関西學院 學生會抄史』1937年、126-127頁)

当時何んでも教授された先生のヘブライ語をエスケープして逃げ出した(?) 吾々を二階の窓口からあの長身の老先生体を乗り出して”皆サン、ヘブライ語、ヘブライ語、ヘブライ語 早く早く早く”と 手招きこれには参った。又スゴスゴ引き返す。 (元吉 潔「ニュートン先生」『母校通信』5号、1950年10月、12頁)

最も印象に残って居るのはニュートン先生組合教会からたった一人メソヂストの神學校に飛び込んだ僕を 先生は何かと心にかけて親切に御世話下さった。その温情はいつになっても忘れられない。 然し、時には-或年の二学期の始め、夏休から帰って神學部長室に挨拶に行くと僕の貧弱な体躯をぢつと見つめた先生は 突然「君は運動をやるか」と訊いた。
「私は運動は余り好かぬ」と答ヘると、先生は声を勵して「運動が嫌いならすぐ學校を止めて國へ帰れ」と怒鳴りつけた。 それから約廿分、日本の青年が毎年結核で何万人づつか斃れて行くと云ふ統計を冒頭に「運動してもっと立派な体格にならぬと 良い勉強も出來ぬし良い牧師にもなれぬ」と説教されてホウホウの態で寄宿舎に逃げ帰った。 それから数日後神學部の玄関で僕のコウモリが紛失した。小使いに話すと「多分ニュートン先生だろう。 先生は自分の傘と他人の傘との区別がつかぬ方だから」と云う。果たして数ヶ月後に先生が平然と僕の傘をさして構内を歩いて居るのを発見した。 返して頂いたことは勿論である。 (岩間松太郎「運動が嫌いなら國へ帰れ」『母校通信』5号、1950年10月、12-13頁)

私のニウトン先生と最も交渉の多かったのは中學部在學当時であった、 其は今から七年前の事であるが學院殊に中學部に取っては非常な動揺のあった時である、 吉岡先生は病の為め院長の職を退かれニウトン先生が新院長として就任された、 始めての外人院長と云ふので少からず私共は不快に感じたものだ、 殊に先生が中學部長を兼任されて倫理學を受持たるるに及んで生徒は随分思ひ切った事をやった事がある。 それも一度や二度ではなかった、此うした空気も野々村先生が部長として大正五年の秋來られるに及び一掃されて終わった。
此んな中學部の子供連中が惡戯を連発した際にニウトン先生は何うされたか、 私共生徒に對して一言のお叱りもなかった、それのみか益々生徒に向って親切にしてくださる、 此うなっては幾ら向ふ見ずの私共でもニウトン先生と云ふ人は兎に角立派な人格者である、 惡氣の無い人であると云ふことだけは頭の中に判然と入って來たのだった、 殊に或る日の事、日曜日の神聖なることを説かれて熱心に説教された時などは實際其の誠意を直感せざるを得なかった。 或は「穽より」と云ふ宗教書を全院の生徒に配附されて私共の精神修養に糧を與へて下さったこともあった。 當時私共は先生を誠意の人として認めるに充分の材料があった、然り私は先生を以て誠意を以て人類を愛する人であると 斷言することが出來る。 (北野大吉「ニウトン先生を送る」『學生會時報』第7号、1923年5月15日、2頁)

關西學院時代、制服を作る金が足りないので、ニュートン先生の所へ金十圓を借りに行った。 快よく出して下すった先生は禮を云って立ち去らうとする私を捕へて證文を書けと云はれる。 何だたった十圓の金に、業々しく證文でもあるまい、私は心中一種の不満を覺えたが兎も角も云はれる通りの文言を書いて、 サインして先生に渡した。
それを見乍ら先生の言はれるのはかうである。
大石、おまへはいまに牧師になるのだ。金錢の問題に対してルーズな人間は牧師としても必ず失敗する。 何事もキチンキチンと事務的に處理する事を忘れてはいけない。それからついでに英語の借用證の書き方も覺えて置くがいい。
私は先生の用意の有する所を知って恐縮した。
病氣をして寄宿舎に寝て居るとニュートン先生は忘れずにポーリッヂャプディングを持って自ら見舞ひにやって來られた。 澤山の學生が其味を知ってゐる。私もその一人だ。中には仮病でお見舞品の到来に出遭ひ、 其味が胃嚢と良心に染み渡ったといふ人の話も聞いてゐる。 (大石繁治「ニュートン先生の墓に詣づるの記」『日本メソヂスト新聞』第2143号、 1933年2月10日、8頁)

ニュートンさんに代表されている温かい大きい手、僕はチャペル・エスケープしてたら途でバッタリ、 ニュートンさんにつかまってネ。(一同笑い声)何処に行ったと聞かれて、「あとでひるに来い」 (一同大笑い)びくびくしながら行ったら、「次の時代はおまえ達だ。しっかりやれ。」 先生にシンボライズされている。叱られるかと思っているとほめられたり、こんなこともあったネ。 僕が日曜日神戸教会の礼拝に出てやろうと思って急いでいたら、ニュートンさんにつかまった。 「何処に行くか」と来た。僕が「コウベチャーチ」と答えると、先生大きな声に力をこめて「ユーアーメソジスト」 僕も負けないで振り切って神戸教会に行ったがね。(一同笑声)僕はずい分悪いことやったと今でも思うヨ。」 とにかく大きな抱擁力のある人だった。 (座談会「関西学院を語る-人・精神・課題にふれつつ-」における原野駿雄の発言より『学院を語る』1965年1月、27-28頁)

関西学院で学び、卒業後母校の教師となった人々にとって、ニュートンは恩師であると同時に、 先輩であり上司でもあった。そのような教師に、ニュートンは特別大きな感化を与えたようだ。 そのことは、「私においてはニュートン先生が生涯の方向を示し、学院に愛着させた導きの星・パイロットだったと思う」 (座談会「関西学院を語る-人・精神・課題にふれつつ-」『学院を語る』1965年1月、24頁) と語った矢内正一名誉中学部長の言葉に端的に表れている。ニュートンの影響は、そのような教師を通じて、 さらにその次の世代に受け継がれて行ったのである。

私が関西学院に入った年の院長がニュートン先生だったわけです。 先生はもう晩年で、退任される直前でした。南軍の将校で後に宣教師となって日本に来られた人ですから、 吉岡先生が明治の日本人の神髄のようなところを持っていらしたのと同じように、アメリカ南部の、 野性的なものが残っているたくましい人が、神にとらえられて日本にやって来たというような印象が僕には非常に強かった。 ああいう人にはそれまで出会ったことがなかったですからね。入学試験で口頭試問を受けたのですが、 ニュートン先生の隣に河上丈太郎先生も座っていらして、極く簡単なことしか問われなかったのですけれど、 それが僕にとっては非常に深い人間教育の機会となったわけです。日本人に対してアメリカ人がもっている いちばんいいものを残さねばならないという温かい気持ちが溢れていて、実に人間として大きい感じがしました。 私が関西学院に深く惹かれたそもそもの始まりです。平賀(耕吉)先生が北海道から来られて、 どこか学校に入りたいと思って関西学院の門の前で看板を見ていたら、中から出てきた白髪の老人が君はここで何をしているのだと言われて、 事情を話したら、では関西学院に来なさいと実に親切に話されて、それに物凄く惹かれて関西学院に来る気になった、 こういう人間的な温かい人がいるならきっと良い学校にちがいないということで学院に来る気になった、と話されたことがあります。 それがニュートン先生ですね。私もそうでした。私が入って間もなくベーツ先生と院長を交代されたのですが、 それでも二年ほど倫理学の講義などをされたのち帰国されました。ですから院長として接したのは半年もありませんでしたし、 講義も三年の時に半年ほど倫理学を聴いただけです。先生の試験には答案にGodという字を沢山書いたら点が高くなる、(笑声) という伝説がありました。そういう伝説が伝わるような人です。ともかく神様しかいない、それが晩年のニュートン先生のほんとうの強みだったと思いますね。 神以外なにもないという感じですね。そしてあの温かさはどこから来るのか、日本人に対するあの愛情はどこから来るのかという問いをわれわれに投げかけますからね。 そういう意味で僕にとっては生涯の恩人だったし、本当の教育者だったと思うわけです。 ですから、私が関西学院に残ったのも、入学試験の時にニュートン先生に出会ったことから始まるような気がするんですがね。 口頭試問でのニュートン先生との出会いというものが、私自身の生涯を動かした原動力だったような気が今もしていて、 実はニュートン先生がどういう思想を持っていらっしゃったか、どういう講義をされたかというようなことは覚えていません。 だけれど先生の全体から受けたものが私の生涯を強くひっぱって行くようで、ニュートン先生のような人になりたいということが 僕の生涯の一つの夢だったと思います。 (座談会における矢内正一の発言より『大学とは何か』1970年、339-341頁)

学校を出て、米国各地を旅していたころ、北カロライナ州のシャーロッテ市のYMCAの宿にいたとき、 ツリニテイ〔トリニティ〕大学にいた児玉国之進君から、先生の手紙を転送してきた。 それに曰く、日本に帰ったら大いにもてはやされ、歓迎されると思ってはいけない、 予期に反して失望するようなことがあるかもしれないが、どこまでも謙虚に身を構え、敬虔な心で主キリストに仕え、 教会につくし、日本教化のために力をうち込んで働くように-と、誠意に満ちた注意をして下さったことを想起し、 先生に深い感謝と謝恩の念を抱いている。 (木村蓬伍「摩耶山録の回顧-神学部の思い出-」『教会と神學 關西學院創立七十周年記念論文集』神學研究特集第9号、1959年12月15日、421-422頁))

堅き實直の人は儒教の産み出す人で平和忍耐の品格は佛教の創造し得るところである。 然しGood man 即ちGodly man神々しき人格は我これを獨り基督教の中に見出すのである。 余は恩師ニュートン博士に於て實に此の善の人愛の人格を見るのである。 師は余がまだ十ダイの青年であったとき生れて始めて教を受けた最初の外國人教師の一人であった。 我らは先生に於て愛の人を見出して外國人-米國人を見出さなかった。 (略)先生の徳は実に高い。先生は學藝に於て随分淺くない方てある。寧ろ學者風の人である。 然かし我々青年が先生を慕ひ一度病を得て歸國滞留數年また日本に歸り給ふ模様の見へなかった時 再び書を傳道局に送って先生の再渡來を懇願した所以のものは必ずしも其の學藝の深奥なるが爲ではない。 そは實に先生の人心を引きつける高徳愛の人格の然らしむるところである。
余は又先生の部下として補佐者として働た時に於ても同様の感を抱いてゐたのである。 (松本益吉「ニウトン先生を送る」『學生会時報』第7号、1923年5月15日、1頁)

それは千九百二十六年六月五日の事です。當時エモリー大學に居た私は、 テネシー州メンフヰス市で開かれた南メソヂスト教會の總會へ、日本メソヂストの代員として出席された田中義弘先生と、 業を終へて日本に歸らうとする今の關西學院教授児玉國之進君とを案内して、 ニュートン先生の御住居に伺ひました。
ニュートン先生は奮新いろいろな時代の弟子達を前にして、非常なご滿悦で時の経つのを忘れて 語ったり聴いたりなさいました。いよいよ別れる時が来ました。先生はいつもなさるやうに、恭しく跪いて、 弟子達への祝福を祈られました。
それから握手をして、私と児玉君とは外に出ましたが、田中先生はあとに残って居られます。 長くなるので、窺いて見ますと、巨大なニュートン先生が、矮小な田中先生を子供を抱くやうに抱いて、 共に泣いて居られるのでした。再び地上で相會ふ日のない事を兩先生とも深く感じてゐられたのでありませう。 (大石繁治「嗚呼ニュートン先生」『教會時報』2086号、1931年12月8日)

三十有與年間を交際し、非常な恩顧を蒙ったものとして私は、今、ニュートン先生に別れなければならぬ事を眞に惜しむものである。 交際の期間が長かっただけ、別れるに當っては幾多の感想が湧出して実に感慨無量と云ふ有樣である。 その二三を擧ぐべく、今私は先生の高潔なる人格に就いて見る。
一、教師としての人格 教師の務めは常に教室に於ける教授如何に懸るのであるが、 ニュートン先生の教室に於ける態度は、昔から今日迄實に、教師としての責任觀に満ち溢れたものであった。 是は凡ての學生が一樣に認識する事實である。例へば、先生は教室へ出るのに、必ず準備せられたるノートを 持参する事を忘れられた事はなかった。又参考になる書物等は、必ずつつまづ發表して學生に讀ませられものである。 更に、先生が個人的感化を學生に與えられた事は莫大な事で、今日多くの同窓生が活社会に活動し得るやうになった 素質は實に先生の感化に培はるる處が多いと思ふ。斯くて教室は、單に學問の研究所であった許りでなく、 一つの祈祷塲と化したのである。そして最高の慰安を與え、青年の心に深き靈の共鳴を感せしめられたやうに思はれるし、 又それが事實であった。
二、宣教師としての人格 先生來朝當時は、交通の便こそ相當に備はって居たとしても、 旅行免状やホテルの宿泊等の關係上、外國人の内地旅行は非常に不便なものであったにも不拘 先生は學校の餘暇には必ず内地の各地方に出張して諸所の教會を補助された。 又日曜日には、此の附近、上筒井村、原田、神戸東部、脇の濱兵庫等の方面に責任ある傳道をして、 一日として此の傳道事業に對して、冷淡の處がなかった。
三、朋友としての人格 先生は、我々の友の中に於ける最大の友の一人である。 實に先生は自ら友たるのみならず、又人に友を與えられた。先生の寛容と慈悲の精神は眞に友化の力を 持って居る。今日と雖先生を知る者は、單に皮相なる交際をなすに非ずして、一身上の問題に就いても、 先生の御一考を煩はし、之と深く協議するやうな處に迄立ち入って行く。 而して、そは又單に教會關係の人のみならず、先生を知る者は誰でもである。外國人にして、斯くの如く内地人の知己を有する事は稀であると思ふ。
四、我々の父としての人格 先生は若き學生を呼ぶに常にブラザーと云ふ言葉を以ってせられたが、 是は、先生來朝の最初からの事である。そして是は先生の我々に對する心理状態の正直なる表れであった。 先生は斯くの如き心理状態を我々に對して有せられたものであるが、我々としては、同時に、先生を父として仰いだものである。 從って我々には、一家族の如き感があって皆が一心同体になって喜びも悲しみも、凡て、共に與にしたのであった。 (田中中学部長(談)「老師を懐ふ」『學生會時報』第7号、1923年5月15日、1-2頁)

原田の森キャンパスは、摩耶山をバックに、赤煉瓦と緑の芝生のコントラストが印象的な実に美しいキャンパスであったと言われる。 草創期には粗末なバラック同然であった校舎が、ニュートンのいる34年の間に充実し、美しく整備された。 そんなキャンパスで暮らす宣教師やその家族にとっても、ニュートンは心の支えであった。

長年にわたり関西学院で働いた人々の中で、ニュートン先生は群を抜いています。 彼は、オールド・スクールが持っていた全ての威厳と寛大さを兼ね備えた南部の紳士でした。 彼が長く黒いコートとローマンカラーを身につけておられないのを私は見たことがありません。 外出の時は、いつも黒いシルクハットをかぶっておられました。身長は6フィート〔180センチ〕以上あって、 この上なく印象的なお姿でした。彼に対する尊敬の念は、中学部の初期の卒業生が私に言った言葉からも明らかです。 「ニュートン先生、ああ、彼は神様です」。
一方、彼はたいへん人情味のある親切な人で、私達教師や学生にとって、お祖父さんのような存在でした。 キャンパス内の全ての人に対して父親のような関心を示されました。特に、院長になられてからは、 忘れがたき威厳とほとんど神聖とも言えるオーラを醸し出していました。 (H. W. Outerbridge “Kwansei Gakuin Memories” 『教會と神學 關西學院創立七十周年記念論文集』神學研究特集第9号、1959年12月、413頁、原文:英文)

このアメリカ人たちは、両親たちとは違ったアクセントの英語を話しており、 私は今でも、南部のアメリカ人宣教師たちは日本語を話すときでも南部訛ではなしていたことを覚えている。(略)
私はニュートン院長のこともよく覚えている。先生は最も謹厳な南部の紳士だった。 先生と夫人は子どもたちには特別に優しく、私たちをたびたび南部風のクッキーとお茶をご馳走にと、 お宅に招いてくれた。 (C.J.L.ベーツ Jr.「神戸、関学そして父」『クレセント』第3巻第2号、1979年9月、111頁)

以前お話ししたことがあったかもしれませんが、私にはこんな想い出があります。 ジョン・ベーツ・ジュニア〔ベーツ院長次男〕かロバート〔ベーツ院長三男〕が、関西学院のキャンパス周辺のタンポポを私に摘ませ、 ニュートン夫人の所に持って行かせました。なぜなら、私が花を摘んで持って行くと、ニュートン夫人は クッキーをくれると言ったからです。本当に親切な人達でした。 (ディヴィッド・ウッズウォース、2002年3月2日付けメールより、原文:英文)

ニュートンの後を継いで、第4代院長として長年にわたり関西学院でリーダーシップを発揮したベーツは、 創立70周年記念式典出席のため、19年ぶりの来日を果たした際、かつてニュートンと交わした会話について次のように語っている。

当時、神学部の統合という問題が考えられたり、話されたりしていたのであるが、 これについて、私は、神学部の初代部長であったニュートン博士ともしばしば語り合った。 -統合にはいろいろな利点がある。が関西学院はこれからだんだん大きくなると思うから、 そういうときに学院全体のために神学部の存続は必要である、と。 こんど来てみて、神学部が存続し、しかもますます盛んになっているのをみて私は非常に嬉しく思い、 またあの当時考えていたことは間違いでなかったと思っている。 (「懇談会におけるベーツ先生談話」『教會と神學 關西學院創立七十周年記念論文集』神學研究特集第9号、1959年12月15日、7頁)

ランバスやベーツの名は、現在も学院紹介の出版物の中に散見される。 ところが、「育ての親」とも言えるニュートンの名はまず見当たらない。 その理由として、ニュートンから直接教えを受けた人々が既に故人となっていること、 後を継いだベーツの院長在任期間が長く、スクール・モットーの提唱を含め、その印象が強烈であったことなどが考えられる。 しかし、関西学院創立後わずか1年半で離日したランバスの精神を後世に伝えたのは他ならぬニュートンである。 その意味では、ニュートンが最も強い感化を与えたのはベーツであったのかもしれない。 ベーツの書いた文章や書簡を読むと、ニュートンに対する尊敬の念が痛いほど感じられる。

『関西学院百年史』通史編Ⅰによると、ニュートン在職中(1889-1923)に、 関西学院を揺るがす大問題(文部省訓令第12号への対応、日本メソヂスト教会の成立(三派合同)、 カナダ・メソヂスト教会の経営参加、高等教育の開始、中学部校舎の全焼と再建、大学昇格運動等) が次から次に起こっている。これら諸問題への対応の中で、ニュートンの功績は評価されるべきである。 しかし、関西学院に残したニュートンの最大の功績は、教え子や共に働いた教職員に与えた精神的な影響であろう。 ニュートンを慕う教え子達が書いた文章からは、関西学院としてのアイデンティティの形成のために ニュートンがいかに大きな役割を果たしたかということが伺えるのである。 生まれて間もない関西学院が様々な困難に打ち勝ち、力強く成長して行くために、それは何よりも大切なことであった。

最後に、ニュートンに対するランバスの言葉を紹介したい。 これは、第2代院長を務めた吉岡美国によって、アメリカのメソヂスト教会誌に発表されたものである (Rev. Yoshioka, D. D. “Rev. J. C. C. Newton, A. M., D. D.: An Appreciation,” Christian Adovocate, June 3, 1921, p. 704)。

「東洋においてリーダーシップがこんなにも重要とされる時、 彼〔ニュートン〕は私達が神に感謝すべき人間です」(原文: 英文)。

[池田裕子]